『虹の麓が乾く頃』本文サンプル




 第1章
 この頃はずいぶん時間をかけて森を散策するようになった。微かな予感を孕む湿った朝の空気や、足を通して伝わってくる夜露でわずかに膨らんだ土と草の感触、葉の間を潜り抜けてくる陽光の勾配、季節の外周を時折不安になるほどの確かさで駆け抜ける植物たち。それらの日ごとの微妙でありながら着実な推移がまったく意外なほどに興味深く感じられるのだ。
 目をみはる思いでブーツをあらゆる露に濡らし土を撹拌する。その森の瑞々しい光景を自分の身の一部とする為に山菜を見つけては摘み、家に帰って薄い色合いのスープを作って食した。パンとスープで胃を満たすと、身体のうちにも森があるような気持ちになり、満足して床についた。
 これまでも周囲のそうしたものごとを決して軽視していたつもりはなかったのだけれど、ある時期からそれらは、今まで見ていた景色がまるで曇ったガラス越しのものであったかのように、はっきりとした存在感を持って私の意識の中枢に立ち上ってくるようになったのだ。
 以前のノートを見返すことが幾分増えたように思う。それらは折々の私情を綴ったものではもちろんなくて、あくまで魔法研究の事務的な記述であるのだが、ノートに書かれたそれぞれのアイデアを試してみようと決めるまでに、自分が辿った思考の道筋を思い返す段になると、昔から私はどうにもこうにも過去の自分が面映ゆく、疎ましく感じられるのだった。今ではとっくに打ち棄てた馬鹿げたアイデアに夢中になっている部分に差し掛かった時などにはなおさらだ。
 そうは言っても、研究上躓いた際には、何かの理由でいままで試さなかった別の道を、過去の自分自身の足跡を辿りなおして見つけ出すしかない。それは結局のところ、時間という座標軸を一方通行に進んでいる私たち、あらゆるものごとを忘れ去り、失い続けながら直線的に生きている私たちの宿痾と呼ぶべき作業であるようだった。そして、それに耐えるのは研究のうちで最も労働的な作業、平生からさしたる生命の危機を感じることもなく、自身の興味の赴くままに生きるという得がたい放埓を謳歌している代償として、ささやかながら私が払うべき対価であるようにさえ思われた。
 だから、あるときから自身の過去の思考の痕跡を辿ることに大した精神的苦痛を感じなくなった時にはずいぶん驚いた。それと同時に、私は自分が日々を自分の好きなように過ごすことを正当化する手立てとしての苦役を失ってしまったことに気づいた。
 今やノートは私の忌むべき過去の失敗ではなく、他人には見ることのできない静かな光を湛えたささやかな勲章となっていたのだ。その足取りに幾らか無駄が多かったとしても、持ち帰った宝の価値を知っている私にとっては、何もかもが価値を保証された一歩一歩へと様変わりしていた。私はそれが友人からの手紙であるかのようにノートを読み返した。その過程で失われたに違いない多くのものを、それらが何だったのかさえ思い出せないままに悼みながら。
 とはいえ、それだけではまだ私のそうした新しい感じ方に対しての疑念は晴れなかった。森に執着するといった程度のことは、何かの拍子に覚えた他愛のない習性の一つとして呑み込んでしまうことができるとしても、自身の過去の足取りに何ら反省が湧かないというのはあまりに危機を孕んでいた。もしかすると精神衛生上は良いのかもしれないが、魔法使いとしては、自家中毒に陥って冷静さを欠いた状態にあるのではないか。生きていくのに必要なだけの大胆さをはるかに超えた根拠のない自惚れは、自身に果てしなく害をなすだけだということを私は知っていた。
 しかし、ずいぶん時間をかけて慎重に自分の感情を分析しても、どういうわけかそうした要素は見当たらない。むしろ私は今までのどんな時よりも、自身に対して冷静なまなざしを向けているようだった。その証拠に、私は過去のどんな記述にもより良い方針、視座を書き込むことができた。その透徹はある種不気味なくらいだった。
 そうして、一ヶ月をかけて添削し終わったノートを机の脇に山と積んでしまった後、私はひどく動揺して、自分の手で熱い紅茶を淹れた。一口啜って両目を瞑り、椅子に座り直して、深く息をついた。身体の中で炎が青く静かに揺らめいていた。どんな森も残らず焼き尽くしてしまいそうだった。結局のところ認めなければならないだろう。どうやら私は以前の自分とすっかり変わってしまったようだった。
 思い当たるきっかけがないわけではない。上海人形が自律を成し遂げたあの夏の出来事は、幾ら忘れっぽい私にも到底忘れることができない。恐らくはあれが一つの大きな分岐点だったのだ。でも、多分それだけではない。どういう道筋を経たとしても、私は結局ここに辿り着いただろうという気がする。
 魔法というものに初めて憧れたあの日、埃のかかった書架から謎めいた世界への静かで孤独な道筋を照らす最初の本を紐解いたあの日には、今いる場所は既に予見されていたはずだ。私はただその歩き終わった道を、諦めと寂しさと……そしてささやかな達成感をもって未練がましく眺めているだけだ。

 紅茶を飲んでしまうと、私は真新しいノートを取り出してペンを取った。深呼吸をして、ゆっくりとこの文章を書き始める。これは、私の部屋に高く積まれたノートの、さらにその上に載せるべく書き始められた、差し当たって最後の一冊だ。既にまとめた事務的な記述だけではあまりによそよそしくて、失われていった多くのもののための餞にはなりえないというのが私の結論だった。供えられる花はいつでも、茎を切れば血の吹き出るような本物でなければならない。それがいずれは朽ちるものであったとしても。
 そう、結局のところ、私の周りに起こったこの一連の出来事も次第に風化して、思い返してみたところで私の心の中には波風一つ立たせない彫像のような記憶になってしまうであろうことに疑いはない。この記述は、そうした時にあって、吹き抜ける春の風の中でその奇妙な遺跡に腰掛ける者の膝に置かれることを目指した注釈たちだ。
 もしも私の力が及ぶならば、その時このノートは一滴の涙を浴びることになるだろう。そして束の間、その遺跡は往時のざわめきを取り戻すだろう。首筋を焼く日差しを取り戻すだろう。とっくに風に溶けてしまった流行り歌を取り戻すだろう。解けてしまった幾つかの魔法を取り戻すだろう。
 もちろん、言葉は世界に何かを足すことはできない。ただそこにあるものを少し組み替えるだけだ。私が尽くす言葉が、言い表そうとするものごとからどれだけ離れているのか、その絶望的なまでの差異を私は知っているつもりだ。こうして書いている間にも、私は何か自分が取り返しのつかない間違いを犯しているのではないかと常に薄氷を踏む思いでいる。
 また、私たちが何を語ったところで、結局最後には荒野の只中で虚しく天を仰ぐだけということになるかもしれない。保証などというものはどこにもないし、充分に時間が経ってしまわないうちは自分が正しいことをしたのか間違っていたのか、それさえも曖昧だ。ただ、それでもすべてのことを吐き出し終わってしまったその後では、以前よりも少しだけ穏やかな気持ちでものを言うことが出来るようになるかもしれない。荒野の夜空にも明るい月が浮かんでいるかもしれない。
 言葉にせよ魔法にせよ、私たちがその一見単調で実り少ないようにも思える道を投げ出さず一歩一歩進むことに耐えられるのは、すべてそうした淡い夢のお蔭なのだ。

 上海人形が自律したのは私にとってはまったく前触れのない偶発的な出来事だった。初めに彼女が術式にない行動を取った時には、何か私がかける手順を間違えたのか、人形に身体的な問題が生じているのかどちらだろうとまず考えた。
 人形に対しては基本的に、いかにもそれが機械であるというぎこちなさを軽減するために、複数の動作術式をかけて、それらの優先度をアトランダムに増減させるという形式を取っていたので、術式同士がぶつかっている可能性がある。
 そう思ってメモを取り出し、彼女にかけた術式を順々に解除していったが、リストを半分まで消化したところで、はたとその可能性に気づいた。もしも本当に私が組み込んでいない行動が自発的に行われているとしたら。それが指し示す事象に思い当たって、一瞬息が止まる。頭が沸騰しそうになるけれど、水を一杯飲んで何とか抑え込む。ぬか喜びは禁物だ。まさか誰かのいたずらということは……。私以外に術式を書けそうな者が二人思い浮かんだけれど、さすがにそれはないはずだと考え直す。術式を組み込む人形そのものにある程度のセキュリティは敷いてあるし、それは悪ふざけとしてはあまりにもたちが悪すぎる。
 私はコップを机に置いて、上海を横たえている台の近くに戻った。思わずその青い目を上から覗き込む。ずいぶん前に私が作ったその当のものを。じっと見ていると、目の奥できらりと何かが光った。息を飲んだ私は決心して震える手を伸ばし、彼女の右手をゆっくりと握った。彼女は微かな力で握り返してくる。こんな動作は術式に組み込んでいない。私は両目を瞑って、自らの身の奥にある深く激しい震えを感じ取った。そんなことは久しぶりだった。自分にもまだこうした瑞々しい感情が残っていたのだと思った。一体何から話そう、と私は考える。何かの手段を通して外に出たがっている、ずいぶん多くのものごとが私の中には詰まっているようだった。
「上海」と私は静かな声で呼んだ。

 あらゆる過程を飛び越えた唐突な到達の後で私が初めに試みたことといえば、もちろんそこに至るまでの道の舗装だった。上海に与えて他の人形に与えなかった条件を、思い当たる限りノートに書き連ねて毎晩頭を捻った。他の人形たちに比べ、ずいぶん長い間手元に置いて、また色々なところに連れ回していたので、そのうちの一体どれが彼女を今あるようにしたきっかけとなった特別な条件だったのかは分からなかった。
 上海は私にくっついて、その小さな身体いっぱいに満たされた驚くべき好奇心をもって家の中を探検した。書斎も食器棚も浴室も、彼女にとっては能動的に足を踏み入れたことのない未知の荒野なのだ。私は彼女に負けない好奇心で彼女の意識の萌芽を探した。彼女は言葉を発することこそなかったけれど、肯定と否定の意志表示をすることはできたので、私は思いつく限りの何か手がかりになりそうな質問を彼女にぶつけてみた。あなたが作られた時のことを覚えているか。ノー。私が誰か分かるか。イエス。一週間前のことを、一ヶ月前のことを覚えているか。イエス。どうも三ヶ月くらい前までは記憶があるようで、その辺りが自我の発生地点だということは分かったけれど、その時期の日誌を読み返してみても、何も特別なことはしていない。私は途方に暮れてしまった。一週間ほどすると、あまりに私が外に出てこないのを見かねてか霧雨魔理沙が訪ねてきた。
「干物にでもなってるのかと思ったよ」
「まさか」
 魔理沙は夏の日差しを背負って玄関口に立っていた。太陽に透かされた金髪がきらきらと光った。彼女がドアを開けたせいで、家の中に湿度も温度も制御されていないうっとするような生の熱気が入ってくる。ドアを閉めた彼女は眉をひそめて私の顔をじっと見た。
「なんだか妙だな」
「何が」
「お前がそんな顔しているの初めて見た」
「そう?」
 彼女は頷く。
「この世に辛いことなんか何一つないって言わんばかり」
 私は笑って廊下を先に歩いた。上海がついてくる。魔理沙を居間のソファに座らせて、私は自分で紅茶を淹れに立つ。彼女は私のその行動にも面食らっているように見えた。新しい茶葉の封を開けると、部屋に香ばしく甘い匂いが立ち込めた。二つのカップを持ってテーブルの方へ向かう。彼女は被っていた帽子をソファの脇に置き、手袋を外して一口紅茶を啜ってから口を開いた。
「何か……ずいぶん良いことがあったんだろうな」
「さあね」
「もったいぶるなよ。私に知られちゃまずいことなら、最初から気取られないようにするはずだ。聞いてやるからさっさと自慢しろ」
 何だか見透かすような物言いをするなと思って私はゆっくりと口を開いた。
「そう、じゃあ、どう言えば良いかな……。今、私は上海に何も魔法をかけていない」
 魔理沙は少しの間片眉を上げて、怪訝そうな表情で私の肩の上に浮いている上海を見ていたが、次の瞬間に言葉の意味に気づいて両目を大きく見開いた。
「えっ……本当に?」
「うん」
「じゃあもう」
「他に言いようがないから、そうね、自律しているということだと思う」
 魔理沙は何かを言いかけてやめ、顔を両手に埋めた。上海がテーブルの上に着地して魔理沙を見た。彼女は両手を顔から外して上海の目を覗き込んで手を取り、握手をした。
「はじめまして」
 上海は頷いた。魔理沙は手を離して紅茶をもう一口飲んだ。それから微笑んだ。
「びっくりしたな」
「私も」
 私の言葉を聞いて彼女は不思議そうな顔をした。
「まだ原理が分かっていない?」
 私は頷く。
「それじゃあ先はまだまだ長いわけだ」
 上海は魔理沙の後ろ側に回り込んで彼女の首の後ろを触った。魔理沙は笑って身をよじった。

 二十の年になってからというもの、霧雨魔理沙はまったく冬の羊のように穏やかになり、それまでの放埓も喧騒も嘘のように影をひそめた。少なくとも私にはそのように見えた。彼女を訪ねると、以前にはまるで嵐の後のように散らかっていた彼女の部屋が、整理の行き届いたまっとうな住居になっていてひどく驚かされたものだった。そのことについて訊いても、彼女は照れたようなはにかみを浮かべて首を横に振るだけで何も言わなかった。
 そうした環境の改善のお蔭か分からないけれど、私たちはずいぶん頻繁にお互いの部屋を行き来するようになった。それまでは彼女が私の部屋を訪ねることがほとんどで、それにしても騒々しさの結晶のような一日一日を時の彼方にけしかけるようにして過ごしていた彼女と私とではあまりに時間の性質が違いすぎて、波長が重なる期間は少なかったのだが、この頃はどうしてかしっくりくる。
 ふとした時に会った博麗霊夢にそうしたことを言うと、彼女はなんだか怪訝そうな顔をした。
「そうかなあ。あいつ、何も変わらないよ」
 桜が散った後の神社は暖かく静かだった。彼女は訪れた私を居間に上げて茶を出した。茶の匂いと畳の匂いが混じり合って鼻孔をくすぐった。なんだか色々なことを思い出しそうだった。
「あんたはまあそうでもないけど、本当に妖怪連中なんてこの頃はね、私の背が伸びたとか、髪が伸びたとか、そんな細かいことを逐一言ってはうんうん頷いて帰るのよ。どう思う?」
 私は笑って茶を啜った。
「でも見てくれる人がいるっていうのもそう悪いものじゃないでしょう」
「えっなに。まさかあんたもそういうあれなの? 勘弁してよね……」
 彼女はそう言って笑った。私は彼女が何かしら私を他の妖怪たちに比して自分の側に近い存在だと認識しているようだと知ってひどく驚いたため、すぐには返事ができなかった。
 知り合った当初の彼女を覆っていた、あの一部の隙もない孤独は彼女に起因するものだっただろうか、それとも彼女の役割に起因するものだっただろうか。古くから郷に棲んでいる者は出処を知っているのだろうが、私は違う。
 あるいは、私がそれを知らないことが彼女のそうした認識の理由なのかもしれなかった。しかし、それを彼女に尋ねるのは何というか、彼女を個別的な人とは見ていないように受け取られるのではないかと思われて憚られた。
 また、この頃の彼女が会得した、見ていると自分と自分を取り巻くあらゆるものが肯定されるような気持ちになる微笑みを見ると、そんなことは大した問題ではないとも思われた。果たしてそれは月日を経る中でゆっくりと削れていった外面の内から、彼女の奥深くに隠されていたものが姿を表したのか、それとも彼女の中で何らかの変化があったのか……いや、それは少なくとも変化という言葉で称されるような生易しいものではなかった。それはまさに獲得と呼ぶべきだった。その微笑みの核となるものが彼女の内奥にあったにせよ、そうでなかったにせよ、以前の彼女は今のように、表情だけで他人の鼻孔を懐かしい匂いでいっぱいにするようなことをなしえなかったはずだ。
 ひょっとすると、彼女のそうした横顔を何年にも渡って一番間近で見ていたために、霧雨魔理沙は今あるようになったのかもしれない。彼女の日々の動機のうち、少なくない部分をあの博麗の巫女が占めているということを、私はもうずいぶん前から知っていた。意識してかそうでないかはともかくとして、結局のところ魔理沙の穏やかさは霊夢への対抗なのかもしれなかった。そうだとしたらそれはあまりに微笑ましい、穏やかな闘争だ。しかし、このことに関しても私は魔理沙本人に見解を尋ねることはできなかった。それはもちろん、そうした動機への言及が、意図せずして心の中の最も柔らかな部分を突いてしまいかねなかったからだ。
 ともかく、そのようにして彼女たちは二十の年を迎えた。それは傍から見ている分には一枚の羽根が地面に舞い降りるようなごく静かな経過であり、当人たちにとってもただの通過点にすぎなかっただろう。なにしろ彼女たちは相変わらず空を飛び、妖怪と人間を問わず鞘当てをして、郷を猫のような好奇心で歩き回った。神社で妖怪たちと空の端が白むまで酒を飲んだ。桜の時期には雨や風に一喜一憂した。そうした時間のうち幾らかを私は彼女たちと共有した。言うまでもなく、それはまったく楽しい経験だった。
 魔理沙の魔法は彼女自身が穏やかになり、部屋が片付いていくのと反対に、ますます激しく、強力になって、私はこれにはずいぶん驚かされた。
「なぜだか最近出来るようになってきたんだよな」と彼女は言うけれど、裏で厳しい研鑽を積んでいることはまず間違いなかった。私は彼女のそうした態度が嫌いではない。
 結果が出ない間自分のしている努力を隠すことは、上手くいかないみっともない自分を隠そうとするというだけの動機によってもなされうる行動だけれど、結果が出始めても同じように自分の行いについて口を閉ざしたままでいるというのは、背後にある精神の程度がもう一段階高いように思う。それは実を結ぼうと結ぶまいと自身の努力については他人に見せない、言及しないという彼女の純粋な美意識の結果であり、自分に都合の良い条件付けのない一般的規範のみからくる行動であるだろうと思うのだ。ともすると乱暴さばかりが目立つ彼女の行動の中にそうして押し隠された細やかさを見つけるたび、何とも言えず安心してしまって、私は彼女にずいぶん世話を焼いてしまうことになった。

 夕食に誘われた霧雨魔理沙は、「良いな」と言ってはにかんだ。その微笑みは博麗霊夢のものとはずいぶん違うものの、今では私の手元からは消えてしまった何かを思い起こさせた。私たちは並んでキッチンに立ち、野菜の下ごしらえをし、スープを煮詰め、フライパンに油を敷いた。上海は横でじっと私たちのすることを見ていた。
「お前も少し前まではアリスの代わりにやっていたのにな」と魔理沙は上海に向かって言った。上海は困った表情をする。
「またすぐに覚えられるわ」と私は宥めるように言った。
 チキンのソテーと玉ねぎのスープが食卓に並んだ。切ったバゲットをトーストすると香ばしく甘い匂いが広がった。そこで私たちは強烈な食欲を覚えていることに気づいて顔を見合わせ、手を合わせるや否や片っ端から平らげ始めた。
 上海はそういう私たちをただじっと見ていた。彼女にはもちろん食欲というものはない。そうしたことは今後、彼女にとって内的な問題になっていくのだろうか。さっぱり分からない。こうした状況に置かれると、私は結局のところほとんど何も考えていなかったのだなと思う。
 異なる生の形を顕現させることで、たとえばそれらの比較検討の中から生きるという行為の要素を個別に抽出することができるだろう。私にとって既に食べることは必要ではない。眠ることは必要ではない。しかし、腕を失った人間が尚も存在しない腕に痒みを覚えるのと同じように、私は今も食事をとり続けている。睡眠をとり続けている。その欲求の出処は一体どこにあるのだろうか。私の記憶か身体の構造か、それとも有機物として存在し続けるということの根底にそれらの因子は分かちがたく潜んでいるのか。初めからそうした習慣を持つことなく存在する自律人形が完成すれば、彼女たちと私の比較から、彼女たちと人間の比較から、それは炙り出されてくるはずだった。そして、実際に自律人形は生まれた。
 食事の終わった後で私と魔理沙はチェスの盤を持ち出して幾度か勝負をした。これも上海は興味を持って見ていた。見るものほとんどすべてが新鮮な彼女にとっては、食事であれ、盤の上で行われるゲームであれ、楽しみ方を知らない、全貌が明らかでないという点においては同じであるのかもしれない。
 彼女にチェスのルールを教えることは容易いし、それによって彼女はゲームをすることができるようになるだろう。けれど、なぜ私たちがそれを楽しむのかを説明することは果たしてできるのだろうか。また、説明を受けることで彼女はそれを楽しむことができるようになるのだろうか。
 自律人形の精神にその基盤となる感情……たとえば競争心や探求心があれば、それを取っ掛かりにして、私たちが感じているように彼女も感じることができるだろう。私は彼女の精神の発端を理解していないので、そのようなものが彼女の中に存在するのか知らなかった。
 私は上海の身体を構成するパーツを一つ残らず知っている。多分、今それらがまったくばらばらになって目の前にあったとしても、何も見ずにすぐに一つの人形を組み上げることができるだろう。
 もし、それらの総体が彼女なのだというならば、私は彼女のことを完全に知っているということになる。しかしながら、物質的には私が知っているものばかりで成り立っている彼女を今動かしているその当のものについては、それが何であるか私はまったく知らないのだ。私が彼女に対して付与したすべての物質の総和よりも、さらに多くのものを今の彼女は持っている。それは一体何だろう。自我と一言で表してしまうのはあまりに簡単で乱雑だ。そこで停止してしまうのは本意ではない。内実を理解していない概念にとりあえず言葉を当てはめるのは、まったく間違ったやり方だというわけではないが、それは解決ではないはずだ。
 実際のところ、突如としてあまりにたくさんのことが眼前に広がったために、私はずいぶん気が大きくなっていた。自律の実現という一つの丘を越えた今の私にはもう少し広い景色が見え始めていたのだ。どの方角を見ても、そこに広がる問題は美しく魅力的であり、努力して自制心を働かせなければ私は当てもなく走り出してしまいそうなくらいだった。
 順序として、まず私がなさなくてはならないのは、人形が自律するプロセスの解明と方法の確立だろう。原則を導き出して、それを自分の好きな時に使えるようにすること。そうすれば、少なくとも私は人形の自律を成し遂げたということが出来るはずだ。
 しかし、その時の私に見えていたことはそれだけではなかった。人形の自律について考えることは、私や人形の根幹を問い直すためのメルクマールになるはずだという確信があった。私は上海の目を通して改めて風景を見た。遊びを、食事を、生活を見た。それは私が既によく知っているものであるはずなのに、今までとは少しずつ違うものに見えた。そしてその差異は、私たちが一体どのように生きているのかを明らかにする手がかりになりそうだと思った。
 魔理沙が先は長いと言ったのはまったく正しい。私は今にしてようやく広く深い森の入り口に立ったところなのだ。

 魔理沙は夏の朝を身体いっぱいに纏って帰っていった。ドアを開ける前に上海の顎を人差し指で軽く撫でた。「またな」と魔理沙が言うと上海は微かに頷いた。
 同じ金髪でも、透き通るような薄い色の上海に比べると魔理沙の髪はややくすんだ濃い金なのだが、彼女がドアを開けて夏の朝日を浴びると、二人の髪の色はまったく同じになった。上海は目の前の光景にぼんやりと見とれていた。


 第2章
 湖は夏の光を映して煌めいていた。畔に降り立ち、そこから正門に向かって歩いていく途中で、既に門番は私に気づいて笑顔で手を振った。全身が押さえつけられるような感覚さえあるこの暑さの中で、彼女はどこからそんな笑顔を引っ張り出してこられるのだろうと感心しながら私は小さく手を振り返した。上海は暑さを感じてはいないようだった。
 紅魔館の図書館の大きな木のドアを両手で押し開けると、いつも通りの埃っぽい巨大な空間が現れる。ここはどんな季節の中にあってもまったく変化というものがない。ただ、壁に沿って宇宙を思わせるほどに延々と伸びる書架と、いささか蒼褪めた古い夢の数々と。少し歩くと、大きなテーブルの前に腰掛けて本を読んでいるこの部屋の主が見つかった。彼女の正面の椅子に座ると、顔を少しだけ上げて私の方を見る。
「こんにちは」と私は言った。
「こんにちは」と彼女はにこりともせずに返す。「しばらく姿を見なかったような気がするけれど」
「そうね。二ヶ月くらい」
 彼女は頷いて視線をすぐに本に戻した。しかし、次の瞬間には私の目の前で紅茶のカップが湯気を立てていた。私は礼を言って口をつける。こうした彼女のやや奥まった歓迎の仕方にもとっくに慣れていた。紅茶を啜りながら書架を見渡し、今の自分が求める知識は一体この広大な部屋のどこに隠されているのだろうと想像するこの時間は私にとっての静かな楽しみだった。
「あなたの人形、自分で動くようになったらしいわね」と彼女は天気の話でもするかのような口調で言った。
「ええ」と私は少し驚いて言う。「誰かに聞いたの?」
「魔理沙」
 私は頷いた。私の後ろできょろきょろと図書館の中を見回していた上海は、パチュリー・ノーレッジの方に向かって飛んでいった。パチュリーは近づいてくる上海を無表情のまま眺めていたが、彼女が自分の顔の前にやってくると、慣れ親しんだ者以外には判別できないほど微かな笑顔を浮かべて人差し指を出した。上海は両手を出してその指に触れた。
「あなたとはどうも初めて会ったという気がしないわね」とパチュリーは言った。
 冗談を分かっているのかいないのか、上海は素直に頷いた。
 パチュリーは近くにいた司書に耳打ちして人工知能の本と認知科学の本を持って来させた。彼女はそれを私に差し出す。
「ねえ、これって外の科学の本なんじゃないの?」
「そうだけど」
「私たちは魔法使いだったわよね」
「食わず嫌いは良くないわ」と彼女は言った。「あらゆるものから学ばなければ。時間の制約さえなければね。あなたに急ぐ理由はないでしょう?」
「ええ」
「魔法の本は自分で探しなさい。何せ時間はたっぷりある」と彼女は言った。それから少しだけ笑った。「多分ね」
 彼女がそうして話している間も、上海はパチュリーの髪やら服やらをじっと見たり、時折恐る恐る触ったりしながら彼女の周りをゆっくりと飛んでいた。注意しようかと思ったが、どうやらパチュリーは満更でもない風で、私はずいぶん驚いた。普段の印象から、てっきり彼女は子供が嫌いなのだろうと思い込んでいたのだ。私は紅茶を飲み干してからテーブルを離れて書架の海に漕ぎ出した。
 どんな本が収められているのかを知っている棚に辿り着くだけでも少し時間がかかる。むしろ訪れる度に少しずつ見つけにくくなっているようにも思えた。外観から想像されるよりもずいぶん広いこの図書館の空間的膨張は、館のメイドの手によってなされていると聞いていた。私がこの延々と広がる書架を見ていつも宇宙を連想するのは、単なる機械的修辞というだけではなくて、こうした図書館の性質にも基づいている。ここに外の世界から本が流れ着いて蔵書が拡張する度に、この屋根と壁に囲まれた宇宙は一様に膨張しているのだ。その営為の果てのなさを思うとくらくらしてくる。無限に思えるその運行が有限の命しか持たない人間に委ねられていることも。先程パチュリーは、時間に制限のない私たちのような魔法使いは幾らでも本が読めるというようなことを言っていたけれど、読む速度よりも増える速度の方が早ければどうにもならないではないかと、私は書架の間を迷い歩きながら思った。もちろん、どれだけ量が増えようと、書かれてから百年の時間が過ぎて、なお読む価値のある本などというのはほんの一握りに過ぎないけれど……。
 目当ての本棚にようやく辿り着いた私は、見慣れた背表紙の並びを眺めたり指でなぞったりしながら、それらを既に読んだものとまだ読んでないものに分ける。ずいぶん読んだつもりではいたのだが、それにしてもなお後者があまりに多いことに苦笑しながら、今日借りていく何冊かを選び出した。
 本を持って元の場所に戻ろうと一瞬向き直りかけたのだが、そこで私の心の中で一匙の冒険心が疼いた。パチュリーの先程の言説のせいも少しはあっただろう。私は図書館のもっと奥に踏み込んでみたくなっていた。もしかすると、パチュリーでさえ把握していない、興味深い本の詰まった書架がどこかにあるのではないだろうか。本を両腕で胸の前に抱えて、私は来た方向と反対側にゆっくりと歩き出した。

 かれこれ十分は歩いてきただろうか。ただ、時計を持っていなかったし、景色もずっと同じであるために、自分の時間の感覚に自信が持てない。正面には確かに壁が見えているはずなのに、歩いても歩いても一向に近づかない。まるで蜃気楼を見せられているようだ。あるいは、メタファーでない文字通りの宇宙か。書架の上部は天井とくっついているので、飛んで上から全体を確認することもできない。時折立ち止まって、近くの棚に収められている本の背表紙を確認するのだが、少しずつ自分が知っている分野からは外れてきている。その外れていく速度がきっちりと一定であるために、私は幻影を見せられているわけではなく……いや、どうだろう、それについて確信を持つことは不可能かもしれないが、少なくとも私が先程から同じところをぐるぐると回っていたり、私の感覚が何らかの外的要因によって歪められていたりするわけではないと考えられた。少なくとも私は正常な認識能力を保った状態で、ある程度系統立てられた本の順列の中を、一方向に進んでいるはずだ。歩き続けながら、頭のどこかで何だかとても馬鹿げたことをしていると分かっているのに、下手にそうした理性が働くせいで、私は元の場所へと引き返すタイミングを失っていた。この道程には果てがないのかもしれないと思いながら、また一方でもう少し先が見たいという欲求を抑え込めずにいたのだ。
 書架は十ずつ横に繋がっていて、一つの島ともう一つの島の間に距離がある。書架に沿って歩いていくと、私のペースだと大体三十秒に一回左右が開けることになる。そのことに気づいてからは、時間の感覚が少しずつ戻ってきた。また、気にするまい気にするまいと頭の隅に追いやろうとしていた、得体の知れないなんとも不安な気持ちが、頭の中で書架を時間と速度との乗算から導かれる距離として規定することで、いとも簡単に掻き消えた。書架を確認して、もう五分だけ歩いたら戻ろうと一旦決めてしまうと、あと百個向こうの本棚には何が入っているのか、直線的距離に置き換えられた分野の隔たりとは一体どのくらいのものなのだろうと楽しみに思え始めた。
 百と決めた本棚を七十まで通り過ぎたところで、横から急に人影が現れてぶつかりそうになる。こんなところで誰かと出くわすとは思っていなかったので、避けた拍子に転びそうになったが、相手がとっさに私の腕を支えてくれた。
「ありがとう」と私は言った。
 体勢を立て直してから相手を見ると、それはこの館の主の妹だった。
「どういたしまして」と彼女は言った。「何をしているの、こんなところで」
「本を探しに」
「ふうん」と彼女は少しつまらなさそうに言った。「見つかると良いね」
 フランドール・スカーレットを図書館で見かけるとは思っていなかったので、私は彼女をまじまじと眺めてしまった。たとえ、この世の何もかもが結局は崩壊の過程であるとしても、有形無形を問わず様々なものを壊すことができる彼女のような存在には、魔理沙や咲夜のような人間とはまた違った意味での刹那的なイメージが常に付きまとっていたし、そうした点の時間を生きている類の存在に対して、読書という行為はどうにも馴染まないように思えたのだ。
 しかしながら、私は決して彼女のことをよく知っているわけではない。もしかすると、私は何らかの偏見によって、彼女に対して性急な判断を下していたのではないだろうか。恐らくはそうした倫理的な内圧が生まれていたこともあって、私は目の前にいる吸血鬼にずいぶん興味を惹かれた。
「この図書館の一番端にはどんな本が置いてあるのかしら」と私は訊いてみた。
「……一番端?」
「行ってみようとしたことはない?」
「ないわけじゃないけど」
 それまである種尊大と言うべきか、気だるげな態度でいたフランドール・スカーレットは、急に落ち着かない様子になった。少し恥ずかしがっているようにも見えた。
「何かが起こったの?」と私は訊いた。
「さあね」
「この空間は咲夜が拡げているのでしょう」
「そうよ」と彼女は私の問いに今度は微笑んで答えた。「あの人間には自由にできる時間があるわ。世界から自由に時間を切り出すことができるということは、空間を生み出すこともできるということ。彼女が初めてここに来たあの時がこの館のビッグバンだったのね」とフランドールは言った。「パチュリーは大喜びだったな」
「そうでしょうね」
 私は彼女の言葉を聞いて、あることが気になったが(言い訳をするつもりはないけれど、誰だって同じことが気になるだろう)、デリケートな話題に触れずに訊きおおせることは不可能だということもすぐに分かったので、疑問は心の奥にそっとしまった。私は代わりに他の質問をした。
「この図書館は今も膨張し続けているのかしら」
「恐らくはね」
「私たちよりも速いスピードで図書館が膨張していたら、壁に辿り着くことはできないでしょうね」
 フランドールはくすくすと笑った。
「そんな変なことを言ったの、あなたが初めてだよ」
 私も笑った。
「あなたはどんな本を読むの?」と私は訊いた。
「この辺りにあるものは大体」
 私は近くの棚から目に付いた一冊を何とはなしに取り出した。
「それはあまり面白くなかったな」と彼女は言った。
「どうして?」
「湖から農業のための水路を引く工事のドキュメンタリーだけれど、工事の関係者同士の揉め事に記述を割きすぎていて、肝心の工事についての説明が少なすぎると思う」
 私は頷いてその本を戻し、反対側の棚から別の一冊を取り出した。
「それじゃあ、たとえばこれも読んだの?」
 彼女は表紙を少し見て答えた。
「うん。運河の分類と建設の歴史についての本で、パナマの章がとても面白かったわ。レセップスの苦労話も、閘門式の大きな図解も」
 私はびっくりしていた。
「外の世界の水運に興味があるの?」
「別にそういうわけじゃないけど。触ったら私は動けなくなるし」
 私の顔をちらりと見て、彼女はまた口を開いた。
「時間がずいぶんあったの。本と同じくらい。さすがに膨張はしないけれど。それに、私は一回読んだらあまり忘れないから。ただそれだけ」
「あなたは今まで一体どれだけの本を読んだの?」と私は訊いた。
「どのくらいだろうね」
「何年くらいになる?」
「そう……三百年くらいかな」
「一冊を読むのにどのくらいの時間が?」
「一日あれば大体は」
 十一万冊。それはまったくとんでもない数字だと思った。私は思わず書架に目をやった。一列に大体百冊の本が並んでいる。それが縦に八段。すると私たちの左右にある本棚一対におおよそ千六百の本が収められている。それが約七十対。それが紙の頁に置き換えられた彼女のこの三百年だというのだ。私は思わず首を振った。
 彼女は少し照れたようにぎこちなく微笑んで、片足を軸にしてくるりと回り、私に背中を向ける。翼にぶら下がっている七色の宝石が揺れた。
「私の話なんか良いよ。あなたは何かを探しているんでしょう」と彼女は言った。

 魔法の本に加えて、茸の分類の本を抱えた私は、フランドールと連れだってパチュリーのいるテーブルへと戻った。パチュリーは私とフランドールを見比べていささか驚いているように見えたけれど、そのことについては何も言わなかった。
 上海はテーブルの上にいて、本を読んでいるパチュリーの二の腕にもたれて座っている。何というか、ずいぶん仲良くなったようだ。私の姿を見ると陽だまりのような笑顔を浮かべる。私が手を振ると、上海は右腕を胸の前に出して掌を上に向けた。どうしたのだろう、と思った次の瞬間に、彼女の掌に小さな炎が灯った。
 私は本当に驚いた。思わず目を瞠ってパチュリーの顔を見ると、彼女はいたずらがばれた子供のような表情を一瞬だけ浮かべた。
「あなたが教えたの?」と私は訊いた。
「ほんの少しだけよ」とパチュリーは言った。「この子、ずいぶん筋が良いみたい」
 私は頷いた。
「……ねえ、もしかしてちょっと怒ってる?」とパチュリーが私の様子を窺うような表情をして訊く。
「まさか」と私は笑って言った。
 上海が私に飛びついてきたので、私は本をテーブルの上に置いて彼女を抱きしめた。人工繊維の髪から太陽の匂いが微かにした。その関節が僅かに軋む音も。彼女の身体は私が作った部品ばかりでできていたが、その中には少しずつ私が知らない経験が沁み込み始めている。そのことが私にはたまらなく愛おしく思えた。
 パチュリーは私がテーブルの上に置いた本を手に取って、「日本の茸とその分類」とそこに書かれた題を呟いた。
「魔法の本よりかなり離れたところにあったわ」と私は上海の肩越しに言う。
「もしかしたら魔理沙は読んだことないかもね」とフランドールは言った。
「又貸しは禁止よ」とパチュリーがすぐに言った。

 家に帰り着いた頃にはすっかり日が傾いていた。下ごしらえをしていたシチューを火にかけると、私は図書館で借りてきた本を読み始めた。上海がコンロと自分の手を交互に見比べては掌から炎を出そうと試みていて、その様子がおかしくてつい笑ってしまう。三度ほど試してうまく小さな炎が灯る。満足げな表情を浮かべる彼女に、お願いだからボヤは出さないでねと後ろから声をかけると、私に見られているとは思っていなかったのか、驚いて一回転した。
 借りた魔法の本を読み進めるうち、その内容が自分のテーマや目標からやや外れていることに私は気づき始めた。そうなると、いつもであればそこからはもうほとんど見出しに軽く目を通すだけで読み流してしまうのだが、今日はなぜだかそういったことをする気持ちにはならなかった。シチューが出来上がり、バゲットの残りをトーストして、オリーブオイルを小皿に敷いた後で、一体どうしてだろうと考える。恐らく理由は今日のパチュリーやフランドール、そして何といっても彼女と歩いたあの広大で謎めいた図書館のせいだった。
 私にとって図書館は、もはや古い書物が順序良く収められただけの静かな建物ではなかった。息づき、まさに今躍動する巨大な生き物だった。パチュリーがあそこから滅多なことでは動こうとしないのも頷ける。そしてその様態の重要な観察者の一人であるフランドールのいささか偏執的でさえある膨大な集積……。そうしたものを見た後で私には、ただ現在必要ではなさそうだという程度の理由で、本によって目の前に提示された知識を受け流すなどということは出来そうもなかった。図書館を生き物に準ずる存在とみなし始めたことで、私と図書館との関係はただそこにあるものを読み取るだけの一方的なものから、双方的なものへと変質していた。一度本を手に取ったら、私たちはそれを最後まで読んでしまわなければならない。目の前で、誰かが自分に向かって話しているのであれば、好むと好まざるとに関わらず、聞き終えるまでその場を離れるわけにはいかないのと同じことだ。得た知見を吟味するのはその後で構わないはずだった。パチュリーが時間は幾らでもあると言ったのはそういう意味かもしれなかった。彼女が図書館から動こうとしないのは、あるいはその巨大な生き物が彼女に語り続けている長い言葉を聞いている最中であるからなのかもしれないと私は思った。
 そういうわけで、その日のうちに私は魔力を化学エネルギーに変換した上で植物の師管に流し込む方法論についての記述を読んだ。これによって維管束植物の成長を自在に操れるようになるということだ。花の妖怪のちょっとした真似くらいならばできるかもしれない。

 次の日の午前中に魔理沙が訪ねてきた。夏の光を纏った彼女は、玄関の扉を開けてからしばらくの間、何かの啓示を待っているかのように目を瞑っていた。上海が魔理沙の前に飛んでいくと、彼女はようやく微笑んで両手を広げた。
「天使みたいだ」と魔理沙は言った。
 私は思わず吹き出した。「時々そういうこと平気で言うよね」と言うと、彼女は口の端を曲げて苦笑した。
 テーブルの上に座った彼女は、端に置いてあった「日本の茸とその分類」を手に取ってぱらぱらとめくり始める。私が慌てて「それ持って帰っちゃ駄目よ」と言うと、彼女は「いや、ずいぶん前に読んだ」と言った。
 ミルクを出してやると魔理沙は黙ってコップを両手で持ち、喉を鳴らして飲み始めた。その姿を見ながら、こういうことは三年前にも五年前にも七年前にもあったなと私は思い返している。
 彼女が全身を冬の雨に濡らし、決壊しかけの堤防のような表情で初めてこの戸口を叩いたあの日のことを、もちろん私は覚えていた。それまで彼女が見せようとしていた、外形的な気丈さや傲慢さしか知らなかった私は、その時それが人間の少女が里から離れて腕一本で何とか生き延びようとするために作り出した虚仮であることを知り、また、そうした茶番を、私たちの日常の中に避けがたく潜んでいる、善意によって存続される演劇の一つとして許容した。そうしたフィクショナルな認識の中に入っていくことが、現実をより円滑に乗り越えていくための有用な方法として機能するという転倒を私は少なからず興味深く感じた。
 実際のところ、彼女が私に対して弱みを見せたのは、彼女にとってほとんど決死の冒険だったに違いない。その時の彼女は、彼女を私の元に訪れるに至らせたであろう何かに対してと同じくらい、私に対しても怯えているように見えた。縋り付いた私からもし拒絶されてしまえば、彼女はもはや自身を存立させる手立てを失いかねなかっただろうから。
 溜め息をついた私からバスタオルとシャワーを与えられ、ソファの上で毛布に包まって、湯気の立つミルクを啜っても、まだ彼女は芝居小屋の舞台裏のようなひどく現実感の薄い目をしていた。私は隣に座って、彼女が来る前に読んでいた本を開き直したが、しばらくすると魔理沙がちらちらとこちらに視線を送ってくるようになって気を削がれた。「何?」と訊いても、彼女は何も言わずに首を横に振って毛布を鼻の上まで引き上げるだけだったので、私はそれ以上追及せずに目の前の本に意識を戻す。そのうち、隣から寝息が聞こえてきた。彼女の両目からは一筋だけ涙が伝っていた。
 次の日の朝、私はそのソファで目覚める。いつの間にか眠ってしまったようで、身体には毛布が掛けられていた。魔理沙は既にいなくなっていて、彼女が使ったコップも片付けられている。表から鳥の鳴き声が微かに聞こえた。ちゃんと夜が明けたので私はずいぶん安心していた。
 数日後に会った時に、彼女はもちろんのこと、私もその日のことについて言及しなかったけれど、すっかり取り戻されたように見える彼女の威勢の、その至極儚い存立基盤のリストに既に私も組み込まれてしまっていることはお互いが感じ取っていた。
 空にしたコップをテーブルの上に戻して上海とじゃれている彼女を見ながら、私はかつてはティーンエイジャーだった霧雨魔理沙のそうした姿を思い出していた。もちろん、夜更けになって突然他人の家のドアを叩くのをやめたからといって、彼女がまったく違う人間になったわけではないけれど、迷惑をかけることそのものを伝達手段にしたり、眠ってからの方が雄弁であったりしたことを思えばまったく隔世の感がある。
「何かあったの?」と私は彼女の向かいに座って訊いた。
「そりゃあ色んな事があるな」と言って彼女は軽く笑った。
「そうでしょうね」
 しばらく彼女は黙り込んで人差し指で上海の首の後ろを撫でていた。上海はくすぐったがって笑いながら細い両腕を後ろにまわした。私は何も言わずにじっと彼女を見ていた。
「昨日神社に行ったんだ」と彼女はようやく言った。
「うん」
「たくさん蝉がいるな、あそこは。花見の一週間か二週間のためだけに桜をあんなにたくさん植えるからだ。霊夢はそういうやつだ。もちろんあれを植えたのはあいつじゃないけど、私が言っているのはそういうことじゃない。とにかく、庭ではお互いが何を喋っているのかさえ聞き取れない」
「そうね」
「私たちは縁側で靴を脱いで中に入った。襖を閉めると風が通らないけれど、全部開けると蝉があまりにうるさい。それで半開きにしたんだ。そうしてしばらくぬるい麦茶を二人で飲んだ。で、霊夢が前日に里の人間からの供物で西瓜をもらったことを思い出して、井戸で冷やしているから取りに行こうと言った。私たちはもう一度縁側から外に出た。二人でだらだら額から汗を流して、蝉の鳴き声を聞きながら井戸の底の西瓜を引き上げたんだ。それは深くて暗い場所からゆっくりと上がってきた。私たちは同じ綱を握ってそれを見ていたんだ」
 そこまで喋ってしまうと、魔理沙は下唇を舐めてまた黙り込んだ。私が上海に目配せをすると、彼女はキッチンに飛んでいき、グラスに水を注いで持ってきて魔理沙の前に静かに置いた。しかし、魔理沙は自身の思考の中に沈んでいて気づかないようだった。十秒ほどが経っただろうか、彼女はまた口を開いた。
「それを見ているとなんだか妙な気持ちになってきた。今二人で持っている綱を私だけが手放したらどうなるだろうって考えたんだ。西瓜が落ちて井戸の底を打つ情景を思い浮かべた。粉々に割れて赤い中身が飛び散るところを。もちろん実際にはそんなことはしなかったけどさ。私たちは冷えた西瓜を持って神社の中に戻った。霊夢が西瓜を切って、二人でそれを食べ始めてからも、さっきみたいな考えはずっと私の頭を離れなかった。そのせいで私はずいぶん混乱していたんだ。西瓜はあまり甘くなくて、霊夢はしきりに塩を振っていた。服を見ると汁が跳ねて袖の白い部分が汚れている。西瓜は脇目も振らずに食べないと美味しくないって、あいつはそう言うんだな。食べ終わるとあいつは流しに皿を置いて、手を洗って私の肩にもたれかかってきた。警戒心の欠片もないんだ。まるで寛ぎきっていた。なんならそのまま眠りだしそうなくらいに」
 魔理沙は口を閉じて私を見た。彼女は自分の前にコップが置かれていることに気づいて、それを一息で飲み干した。私は彼女の喉が上下するのを見ていた。彼女はコップをテーブルに戻して深く息をする。次の言葉を口から出すべきかどうか、迷っているように見えた。ややあって彼女は話し始めた。
「私は決して不幸じゃないよ。お前のことだって霊夢のことだって好きだ。だけど私はこんな風にして年を取っていくことが本当に正しいのかまだ分からないんだ」と彼女は言った。「なあ、私が人間をやめたらあいつは私を殺すかな? ……殺すかもしれないな。でも、今あいつに殺されて死ぬのと、これから年を取って何十年もしてから人間として死ぬのと、一体何が違うっていうんだろう。それは結局同じなんじゃないか?」
 魔理沙は言いたいことを言ってしまって、今にも泣き出しそうな表情でじっと私を見ていた。その様子は撃たれるのを待っている鹿のように見えた。そういう、突けば容易に崩れ落ちるような、あまりにも無防備な姿を晒すことと、彼女が口にしていることとはひどく不釣り合いで、霊夢の警戒心のなさを詰るようなことを言っておいて、今私に対して丸腰で腹を見せているのだ。この人間のこういう不用心さをここまで放っておいたのは私でもあるのだが、それも含めて私はだんだん腹が立ってきた。
「それを私に言うってことがどういうことなのか分かっているの?」
「?」
「ここは魔女の家よ。あなたをどうしてやることだって私にはできる。それを理解して喋っているのかって訊いているの。ずっと前から言っておくべきだったのかもしれないけれど」
「お前は私を殺したりしない」と魔理沙はゆっくりと言った。
「気が変わったかもしれない」
「いいや」
「私が今聞いたことを霊夢に言ったらどうするの?」
「言わないね」
「あんたの面倒を見るようになったのも気が変わった結果でしょう。どうして同じことがもう一度起こらないって言えるの」
「私はお前を信用している」
「霊夢もあんたを信用している」
 魔理沙は黙り込んだ。私は霊夢の顔を、この頃の彼女が獲得したあの表情を思い浮かべていた。彼女自身の外形的な変化が、一体彼女の立場のそれとどのくらい連関しているのか私は知らなかった。
「あなたは賭け金を釣り上げているのよ。そうでしょう? それでも意志を通したいのであれば、もっと慎重になりなさい。軽々しく口にしてはいけないことがあるわ。誰に対しても」
「お前は味方してくれないのか?」
「どうしてしなきゃいけないの」
 魔理沙はそれを聞いてびっくりした顔をする。それから当然だという風に口を開いた。
「だって、私が死んだらお前は悲しい思いをするよ」
 私は思わず苦笑した。根拠もなく気持ちに訴えかけようとする物言いは、本来まったく取り合うに値しない馬鹿げたものであるはずなのに、そのことを公理か何かのように言う彼女の口ぶりが妙におかしかった。そして、こうした荒唐無稽さは、十数年前に一人の道具屋の娘が、他人に隠れて習い覚えた魔法だけを武器に家を出た時にも、確かにそこに存在したはずのものだった。
「確かにそうかもね」と私は言った。



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