『風雨の季節の末裔たち』本文サンプル



 水の流れる微かな音が聞こえている。起きていても眠っていてもずっとだ。私は首の後ろに草の柔らかい突起を感じている。鼻をつく青い匂いを感じている。心地よい暖かさを僅かに上回った日差しを腕と足首に感じている。
 うつらうつらとした意識の中で、それでも少し眠っていたはずだ。私は目を閉じたまま、自分の顔の上から帽子を引きはがす。どの方向から日が当たっているのかを考えている。時計も星も見ないで今が何時なのか当てようとしている。
 つまりはあまりに気持ちの良い夏の日なので少しはしゃいでいるのだ。
 私が頭を向けているのが北だったはずだ。碁盤状の京都の街のY軸に沿って私は寝そべっている。私は両腕に意識を集中させる。日差しは左腕よりも右腕に少し強く当たっているような気がする。その角度の深さを考える。午後の一時なのか、二時なのか……。そこで日差しはふっつりと途絶えてしまう。私は目を閉じていながらその影を感じる。微かに下がったその温度差を感じる。それが恐らくは雲ではないということを。
 陰の中で私はゆっくりと目を開く。腰を屈めて、頭から落ちそうになる帽子を右手で支えるメリーの口が開くのが逆光の中で微かに見えた。
「何をしてるの?」
「北枕」
 彼女は太陽を背負ったままで頷いた。彼女の髪の隙間からは光が射し込んで金色に輝いていた。
「テスト終わったんだ」と私は訊いた。
「そうよ」とメリーは言った。
 私は上半身を起こした。腕や服に草の切れ端と土がくっつく。私は右に身体を向けた。夏の日差しを照り返して鴨川が光り輝いている。彼女もその横に腰掛けた。私は地面の草をむしって川に向かって投げた。
「夏休みねえ」と彼女は言った。
「そうだね」
「どこか行こうか」
「うん」
「どこに行こう」
「どこでも良いよ、好きなところで」
 メリーは笑った。彼女は傍らに置いた鞄の中から二本の缶を取り出した。彼女はその一本を私に差し出した。私は手を伸ばして「悪いんだ」と言った。
「悪い悪い」
「旧型酒?」
「そう」
「贅沢だ」
「夏休みだもの」
 私はメリーに倣って缶のプルタブを開けた。苦みの底に微かな甘さの沈んでいる液体が喉を滑り落ちていった。ビールは美味かった。私はこの古いドラッグが好きだった。その気難しさと悲しさとが。日差しの暑さとビールの冷たさは額の辺りで混ざり合って対流していた。私は少しずつぼんやりとしてきた。メリーは三角座りをしてゆっくりと缶を傾けている。私は空を見上げた。鳶が円を描いて旋回している。確かに夏休みだった。
「実家帰らなくて良いの?」と私は隣人に訊いた。
「うん。全然」
「盆とかなさそうだもんね」
「ないない。盆だから帰ってたの?」
「いや、別に……」と言って私は笑った。
 時間は動きを止めてしまったかのようだった。数日だけとはいえテストは私の方が早く終わっていた。それまでの慌ただしい日々と、今こうしてほとんど何も考えずに座っていることとが同じ時間であるということはなかなか納得し難かった。メリーが同じことを考えていたのかはわからないが、私たちはしばらく黙って座っていた。川の流れる音だけが絶えることなく耳に届いていた。
 缶にかじりついていたメリーがおもむろに立ち上がって川の方へと歩いていった。彼女は流れに向けて缶を傾けた。黄金の酒が真夏の光を浴びてきらきらと輝き、川の流れの中に吸い込まれた。彼女は隣に戻ってきた。
「もったいない」と私は言った。
「お供えよ」
「ヴァレリー?」
「よく知ってるね」
「馬鹿にしてるでしょう」
「うん」
 私はメリーを小突いた。彼女は肩をすぼめて笑った。それから缶の底に溜まった残りを一息で飲む。私も最後の一口を飲んで立ち上がった。私は下流を見やった。一羽の白鷺が水面に立っている。流れがその細い足を濯いでいる。
 メリーの流した酒は川に飲み込まれ、散らばり、分かれながら遙か遠い海をゆっくりと目指す。しかし流れは酔わないだろう。立ち止まりも、それどころか振り返りさえもしないだろう。


 私は京都について話そうと思う。私があるときやってきて、いずれ去ることになるであろうこの街について。
 ひとつの街を、そこを通り過ぎる経験として語ることを許してほしい。どんな暮らしも通過であるということはもちろんだけれど、それ以上に言っておきたいのは、街は暮らされることがそのすべてだということだ。それは、経験される出来事の総体であって、そこにある人とものの総体ではない。だからどんな統計や歴史も結局は要点を少しずつ外れていく。
 街について本当に私たちにできるのは、ただその中に飛び込むことだ。混ざり合って流れていくことだ。橋桁に頭をぶつけないように気をつけながら、その冷たさや喉ごしを謳うことだ。そのあいだに、もし運が良ければ、一筋の酒が口に入ることもあるだろう。


 生きている限り、自分の身体から解放されることはない。そのことを不思議に思うまでにずいぶん時間がかかった。星と月とがいつでも自身の消息を知らせてくるので、幼い私には自分を見失うだけのゆとりもなかったのだ。
 生まれ育った中古の首都である東京には、最終的に私の入り込む隙はなかったけれど、とはいえそれなりに良いところがあった。紙の時代の文明の所産たる大きな図書館が、老朽化に苦しみながらもまだたくさんそびえていた。
 自分の悩みを表現する術と相手を持たない孤独な子供にとって、乾いた権威と質量はよりかかるのにうってつけだった。それは冷たく立派で、何より動き出さないからだ。思考や想像力に比べて、自分の身体があまりに限られたものであることに遅ればせながら気づいた私は、そこで答えを探すことにした。
 リノリウムの床の入り口ホールを抜け、大きな木の扉を開けると、そこには一面に本が広がる大きな部屋が現れた。紙の本はほとんどなく、単なる自習室のようになっている学校の図書室とは違う、本物の図書館がそこにはあった。
 赤い髪をした司書が受付に座っていた。左肘をついて本を読んでいたが、私が入ってきたのに気づくと本を閉じて咳払いをし、居住まいを正した。私は端末登録の手続きをしてもらうために彼女の方へと歩いていった。
「一人?」と彼女は訊いた。
 私は頷いた。実際のところ、私の耳にはそれは彼女の意図とは別の意味を持った質問に聞こえた。
「図書館は広いから」と彼女は言った。「迷子にならないようにね」
 私はまた頷いたが、それはただの彼女の冗談だと思っていた。その一時間後には、彼女が端末に入れてくれた図書館のアプリの画面の一番上にある大きな「司書呼び出し」のボタンを押すことになることも知らなかった。
「ほらね」と三分後に現れた司書は言った。走ってきたような様子もなかったので私は驚いた。「でも別に気にしなくて良いからね。本よりも人を探すのが仕事みたいなものだから」
 結果から言うと、私は書物によってすぐにしっぺ返しを食らうことになる。題名で私を見事に釣り上げたサンテグジュペリは、結局のところその言葉で私を大いに傷つけた。特殊な目だけが自分を定立させる材料であった私にとっては、大切なものは目には見えないという主張は誹謗以外の何ものでもなかった。単に彼の目が良くなかっただけなのだと考えようとしても、しばらく気持ちは沈んだままだった。
 それでも図書館は良いところだった。静かで広く、たくさんの本があり、無神経なことを言ってくる人間もいなかった。少なくとも言った人間は既に死んでいた。そこに通ううちにいつしか私は道筋を覚え、迷路の中から赤い髪の司書に助けを求めることもなくなった。


 建物の屋上はある程度混んでいたが、夕暮れ時であることもあって涼しかった。私たちは運良く空いていた角の席に座った。メリーがビールを注ぎに行っている間に私は店員にナッツを頼む。
 四角い空間の対角線には、装飾のライトが絡まった紐が吊り橋の綱のようにたわんでかけられている。まだ辺りが明るいので灯されていないその紐が、夕焼けを分断しているのを私は見ていた。
 やがてメリーが両手にジョッキを持ってにこにこしてやってきた。
「新型?」と私は訊いた。
「もちろん」
「我らが贅沢もここまでね」
「文句言うなら両方私が飲むよ」
「いただきます」
 私たちはビールを飲んだ。結局のところそれはとても美味かった。麦の香りも、苦みも、紛うことのない本物であるようにしか思えなかった。
「味では違いがわからないよね」とメリーが言ったので私は何やらほっとした。私は熱心すぎないように気をつけながら頷いた。
「結局、単純な美味しさを享受するだけならもうお金ってかからないんじゃない」
「人が減って生産力が上がったから」
「うん」
「人が減ったとは思えないけどね」
 私たちは辺りを見回した。古い商業施設の屋上には、私たちと同じ、試験の終わったであろう大学生の一団がほとんど分刻みで増えていっている。誰もが緊張と緩和との間の加速度を楽しんでいた。私にしたってそれは嫌いではなかった。少なくとも何かをしている気になる。
 日はもう落ち掛かって西の空と雲を真っ赤に染めていた。私はメリーの飲み干した空のグラスを取った。
 グラスを金色の液体で満たしてテーブルに戻っても彼女はまだ同じことを考えていた。
「産業が味覚の感知できる限界を上回らないのっておかしいと思わない?」と彼女は言った。私は笑った。
「美味しすぎることってないってこと?」
「そう」
「美味しく感じるのってもともと目的じゃないでしょう。食べて栄養を摂取して生存するというのが目的で、美味しいのはそのインセンティブ」
「美味しすぎてもわからないって話?」
「まあそうなのかな」
 メリーはビールを一息で半分ほど飲んだ。しばらく黙り込んで考え、それから端に泡のついた口を開いた。
「痛みを感じるのも身体の危険を察知して生存するためだけど、痛すぎて死んでしまうことはあるでしょう」
「まあ、確かに筋は悪いよ」と私は認めた。
「幸せすぎて死んじゃうことはある?」
「それだけはないよね」

 新型酒が酔いにくいのは確かだが、枷の外れた大学生が無制限に飲めば起こるべきことは当然に起こる。私たちは四条通りをもつれた手足で這って抜け、橋の脇を下りた。鴨川は昼間とは別種の輝きを放っていた。酔って狭まった視界の中で、向こう岸の建物の灯りが水面に映ってちらついている。こめかみの辺りに鈍い熱を感じた。私は川に向かってかがみ込んだ。水の流れる音が、エコーがかかったようにぼやけて聞こえていた。
 私が身体を震わせて胃の中身をすっかり吐いてしまうと、メリーが背中を擦ってくれた。
「ごめん」
「歩いて帰れるうちは許してあげる」
「歩けなくなったら?」
「嫌味をすごく言う」


 東京で幼い私が迷子になった場所はもう一つある。
 過密時代の遺物である超大型ショッピングモールにはテナントはもはや数えるほどしか入っていなかった。室内に掲示されている案内図は無用の長物だった。そこに書かれている店のほとんどが存在しないからだ。
 歩いても歩いても店の跡が続いていく。歴史の授業で聞いたことのあるような大昔の企業の看板が転がっていて、それは高度資本主義社会のホルマリン漬けとしか言いようのない光景だった。
 私は少しずつ不安な心持ちになっていた。アプリで司書を呼び出そうかとさえ思ったくらいだ。ここは図書館ではないけれど、それでも彼女であれば私を見つけだしてくれそうな気がした。
 誰が電気代を払っているのか知らないが、モールの中は空調だけが完璧に効いていて、中にいる者を真夏の外気の暑さからどこまでも遠ざけてくれていた。ありがたいのだが、そのことは私を同時に等距離分現実感からも遠ざけていたのだ。
 おそらくは三十分以上、私は自分がどこにいるのかもわからずに歩き続けた。
 そしてあるとき、行く手に赤い看板がぴかぴかと点滅しているのを見つけた。私は驚いて駆け寄った。果たしてそこはマクドナルドだった。二十世紀末経済の領袖は最後まで堂々とその地に根を張っていた。
 私は心ゆくまでハンバーガーを食べた。それから店員に道を聞き、いたく満足して帰路についた。



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